神谷美恵子

人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙のなかで、人類の存在とはそれほど重大なものであろうか。人類を万物の中心と考え、生物のなかでの「霊長」と考えることからしてすでにこっけいな思いあがりではなかろうか。 現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の内にはみいだしえず、「他者」のなかにのみみいだしたものではなかったか。五体満足の私たちと病みおとろえた者との間に、どれだけのちがいがあるというのだろう。私たちもやがて間もなく病みおとろえて行くのではなかったか。現在げんきで精神の世界に生きていると自負するひとも、もとをただせばやはり「単なる生命の一単位」にすぎなかったのであり、生命に育まれ、支えられて来たからこそ精神的な存在でもありえたのである。また現在もなお、生命の支えなくしては、一瞬たりとも精神的存在でありえないはずである。このことは生きがい喪失の深淵にさまよったことのあるひとならば、身にしみて知っているはずだ――。